コロナ禍で全てのスポーツ施設は閉業している現在、
唯一のスポーツといえば
ランニング。
ここイギリスでも
道を歩けば
必ずと言っていいほど走っている人とすれ違う。
私の友人、あんずちゃんも
走るのが大好きなランニング女子である。
たくさんのランニングコースを知っていて
げばをよく連れ出してくれた。
私は走れないけど、歩くのは好きで、
日頃の運動不足を解消するために
彼女の後ろをテクテク歩いた。
そんなウォーキング師匠のあんずちゃんが
足を痛めてしまったのだ!
歩くことはできるけど、当分無理はできないらしい。
「私、もう走れないかも」
というあんずちゃん。
大丈夫。
まだ若いからしばらくしたら治るはず。
だが
これが90歳以上のお年寄りだったら
足の負傷は致命傷となる。
げばはあんずちゃんとこんな話をしたのだ。
お年寄りが寝たきりになるはじまり
元気で暮らしていたお年寄りが
ある日
街で買い物をして、
横断歩道を横切ろうとした時
信号が変わりそうになった。
慌てて早足になった時、
濡れた落ち葉に足を取られ、
すべって転倒。
腰を強く打った。
救急車ですぐさま病院に運ばれる。
20代なら数週間寝ていれば治るところを
90代なら完治まで1ー2ヶ月かかる。
そして腰が良くなっても、
今度はその安静時に
足の筋肉が衰えてしまい、
歩けなくなってしまう。
歩くリハビリを始めても、
思うように歩けない。
今までなんともなかった日常の動作が
奇跡のように思える。
認知症の怖さ
そしてさらに怖いのが
その老婦人が認知症を患っていたとしたら、
大変なことになる。
なぜかというと
体がせっかく完治しかけたのに
それを忘れてしまうからだ。
つまり、自分がまだきちんと歩けないことを忘れて
また転倒するのである。
彼女の頭の中では
自分は普通に立って、歩くことができる。
でも現実にはできないのである。
認知症は現代の悲劇
別の認知症の男性の話である。
彼は転倒して足を痛めて入院した。
だが認知症が進んで
自分がどこにいるのかわからない。
「早く家に帰らなければ。妻が待っているんだ!」
「この建物の出口を教えてくれ!」
「駅に行くんだ!汽車に乗ってうちに帰るんだ!」
「駅への道?知らない。汽車の切符?そんなのない!」
「じゃあ君が連れて行ってくれたらいいだろう!」
家に帰りたくてたまらない彼は小さな男の子のように駄々をこねる。
だがそういう彼を妻はお世話できない。
自分も年老いているためだ。
家族は彼を老人ホームに入居させることにした。
イギリスではごく普通のことである。
家族は彼を病院から直接老人ホームに連れて行く案件に同意する。
彼は家に一旦帰ったら、
老人ホームに行くのを断固拒否するからである。
退院当日、
彼は晴れやかな顔で
職員たちにお世話になったとお礼を言った。
「これで家に帰れる。妻に会える。」
上機嫌であった。
だが車が止まった場所は
見慣れたお家ではなく、
老人ホームなのである。
彼がいかに落胆し、失望したか
容易に想像できる。
老人ホームの生活
イギリスの老人ホームは
プライバシーがきちんと守られ、
栄養のバランス、新鮮な食材で結構美味しい食事が出される。
何より安全面には厳しく、スタッフは訓練されている。
シャワー、食事、などの決められたルーティン以外は自由に過ごせる。
衣服は洗濯カゴに入れておくと、翌日にはきれいになって帰ってくる。
具合が悪くなると、すぐに診てもらえる。
老人ホームというのはその名の通り、
老人が必要とすることを全てやってくれる。
ただ一つを除いて
それが心のケアである。
スタッフは基本的に働き者で
ケアのプロであるけれど、
忙し過ぎて
一人一人の心のケアまで手が回らない。
これが現実なのだ。
時間を超えて生きる妖精たち
人間は、
歳を取れば取るほど、昔の話を好んでするようになる。
新しいものを受け入れることが難しくなってくる。
新しいものを使えるようになるには
勉強しなければならない。
でも今から勉強するのを
めんどうだと思うようになるのだ。
特に認知症の老人は、
思い出の中だけで生きる「妖精」である。
住み慣れたおうちには
思い出が詰まっている。
だから
おうちにいるというのは
つまり、それだけで「安心」できるのである。
だから「妖精」たちの願いは
- 食べたくない食事は食べなくていい
- 好きな友達、家族、ペットとおしゃべりしたい
- 自分のベッドで寝て、おうちの庭を眺めたい
ここまで書いて
あれ?
これってげばの日常ではないか?
老人ホームにいる妖精たちの切望リスト
これらを全て手に入れている私はなんと幸福ものなのだろう。
もっと「今」に感謝していかんとだめだな。
最近こんなことを考えてしまいました。
感謝の気持ちは大切ですよね。
感謝の気持ちを持てない人で、尊敬できる人を知らないです。