イギリスは日本に比べると不満ばかり
天気は悪いし、食事はまずい。
アメリカと比べると閉鎖的でフレンドリーじゃない
野球がない。カラオケがない。
おしゃれしない。
それでも
それでも
移住したい人は後を経たない。
いったいなぜ?
徹底した福祉の充実と
パーフェクトな個人主義があるからだ。
ボランティアの仕事
3ヶ月間の語学学校で英語になれたあと、いよいよボランティアを開始する。
私の派遣された地域はロンドンの南東に位置するAbbey Woodだった。Abbey Woodは今でこそ価値が上がったが、あの頃は’あまり裕福ではない、環境の良くないエリア’だった。
最初の派遣先はLeeという街に住むフィリピン一家のお手伝いだった。
そこのお家の主婦が車椅子生活をしていて、旦那さんが仕事でいない間の子供の世話、家事手伝などの仕事だった。しかしやがて国から奥さんの妹がやってくることとなり、私はすぐに用済みとなった。
次に派遣されたのはプラムステッドという街に住むマリアという女性の世話だった。
マリアは脳に障害をもつLearning Disabilityであり、年は30くらいだが、幼児くらいの知能しかなく、言葉を話せなかった。しかし、表情や動作でコミュニケーションは可能だった。24時間のケアーを必要とし、4、5人のケアラーが交代で寝泊まりし、マリアの生活を支えた。彼女は私が出会った最初のLearning Disability 患者だった。彼女の親は最初はマリアをケアしていたが、成人していく彼女の面倒をだんだんみることができなくなり、彼女を置き去りにして行方をくらませてしまった。そのように孤児になったマリアを見つけたのがソーシャルワーカーだった。マリアは衣食住の庇護を国から受けられるようになった。家を与えられ、きちんとした食事、お風呂、清潔な衣類、テレビなどの娯楽家電、デーセンターでの社交、そしてホリデーまで。今考えると、本当に至れり尽くせりの庇護を受けていた。彼女は食べること、入浴、散歩が大好きだった。私の顔を見ると、すぐにコートを取り出し散歩をせがんだ。
1990年代のあの頃は、こんなふうにあまり訓練を受けなかった若者たちが「安い労働力」としてイギリスの福祉を支えていた。そのため、隠れた虐待などが頻繁に起こっていたと後で知った。
あれから30年経ち、イギリスのヘルスケアー規約が新しく刷新された。患者のプライバシー、人権が保障され、患者を扱うケアラーたちには一定レベルの訓練が義務付けされた。
思い返せば、当時行ったケアはなんと低レベルだったことか。私の最初のケーススタディとなったマリアは元気なのだろうか?もうよい年のおばあさんになっているはずだ。虐待とかされなかっただろうか?いや、ああいった障害をもつ子供は長生きしないから、マリアはもうこの世にいないかもしれない。
そんなことを今日ふと思い出したのだった。