障害者の印籠
人をお世話するという福祉の仕事を始めて9年。
毎日が新しく、日々勉強の毎日である。
この国は本当に弱者を大切にする国だなといつも思う。
しかしながら、「弱者を大切にする」という大義名分を逆手にとって、
自分は障害者なのだから特別に扱われて当然。
何があっても向こうが悪い。だって私は
みて!
「障害者なのよ!」
という被害妄想障害者もいるのだ。
目の見えない人の盲導犬と杖。
車椅子。
それらは障害者の証であり、水戸黄門の印籠の如く、
「私障害者なのよ!どいて頂戴!」
と居丈高に叫ぶ障害者もいるのだ。
目の見えないご婦人の怒り
もう30年前の話であるが
今でも鮮明に覚えている。
私がペーパードライバーだった頃、
ある村の道路で、
慣れない駐車に苦労していた。
後ろから人が犬を連れて歩いていた。
でも避けれない距離ではなかったので、そのまま車を道路脇に止めると、
その人は車にぶつかった。
よく見ると、その人は盲導犬を連れた目の不自由なご婦人だったのだ。
「ごめんなさいね。大丈夫」
あわてて駆け寄ると、そのご婦人はなんと
ものすごい剣幕で怒り、汚い英語で犬をののしって、
持っていたリードで犬を強くたたいたのだ。
あっけにとらわれて
何も言えなかった。
何か犬と私にわめきちらしていた。
私が悪いのですか?
私が駐車した場所は
彼女が目が見えていたら、十分避けられた。
でも盲導犬ならそうは行かない。
私は彼らの行く手をさえぎった悪いドライバーなのだ。
可哀想なのは、仕事を忠実にこなしていたにもかかわらず
婦人から鎖で殴られた盲導犬である。
彼女の大きな声で、人が集まり、
私は障害者を傷つけた極悪人のレッテルを貼られた。
「あなた、この人は障害者なのよ!」
「大切にしてあげないといけないのよ!」
ある近所のおばさんは私をきっと睨みつけ
「私が安全な場所まで誘導するわ」
とご婦人を抱き抱えるようにして二人で歩いて行ってしまった。
心はがんじゃない
この国は障害者に優しい。
障害者の人権は法律でがっちり守られている。
しかし、当然、健常者と同じようにならないことだってある。
精神的に不安定になって、あの婦人のように怒りっぽくなる人もいる。
そういった人を主人とし、共に生活しないといけない、
あの盲導犬に心から同情した。
人間だったら
「あんな気性の患者、お世話できる自信がない」
とお断りすることができる。
でも犬だったら
いろんな思いを言葉にできず、
その思いはたまりにたまる。
盲導犬を命ある生き物としてではなく
単なる物として扱う一部の障害者。
障害者は人間である。ものではない。
その障害者をお世話する人も人間である。ものではない。
障害者を助ける盲導犬は、人間ではないけど、ものでもない。
言いたいのは
いつしか福祉国家の教育が
障害者は上
障害者をお世話する人、犬は下。
という意識を知らず知らず植え付けていないかということである。
私は障害者なのよ!だから盲導犬を鎖で殴ってもいいの。
なんて教義
通用せんだろうが!
あるがん患者になったお友達がいっていた。
名言ではありませんか?
障害者の方を悪くいうつもりはありません。
でも
障害を持っているからといって
心まで障害に犯されないでほしい。
どうせなら
心は健康でいる方がいい!….と
と強くげばは思いました。
目の不自由な人って、なんであんなに明るく振る舞えるのかな?
って思うほど素敵な人が多いのですが。
その方は人を信じられなくなるような体験をされたのでしょうね。
精度の問題というより、心の病ですよね。
犬の心が病まないことを祈るばかりです。